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昨日、twitterにも少々書いたが、新宿で行われた9.11脱原発デモについて率直な感想を書く。
夕方、ゴールである新宿中央公園近くにある仕事場から、デモの様子を眺めていたが、正直逮捕者が出たのは仕方のない気がする。
それほど、一部のデモ隊は統率が取れておらず荒れていた。
それはまるでガキの頃に見た、成田闘争のデモから統率を無くしたかの様だった。
デモ参加者の中には、これを否定する人もいるかもしれない。それはそれで結構だが、はっきり言える事は、デモ隊と一緒に移動していたわけではないので、私はデモ隊の先頭から終わりまで全体を、ビルの3階という定点からじっくり観察することができた、その一個人の感想ということだ。
たしかに、大部分の人たちは整然とデモ行進を行っていたように見えた。
だが、一部デモ参加者は禁止されている歩道を悠然と歩き、一般歩行者の通行の妨げになっていた。
警察からは、再三車道に戻るようにアナウンスがされていたが、聞く耳持たずといった感じだった。
主催者が何人のデモ行進参加者を見込んでいたのかは知らんが、想定以上に多かったということだろうか。
スタート地点から見ていたわけではないので、ゴール近くに至るまでの公安当局との事の経緯は判らん。
だが、統制のとれなくなったデモは、単なる馬鹿騒ぎであり、一歩間違えば暴徒ともなりうる。
あの一部の荒れたデモ隊の横で「原発賛成!」と声高に叫んだら人がいたら、きっと、デモ隊に囲まれボコボコにされた事だろう。
柄谷君がアルタ前での演説で、「「デモで社会を変えられるか」、という質問を受ける。私は「絶対に変えられる」と答えます。なぜなら「デモができる社会ができる」からです。」とい趣旨の内容をアジっていたようだ。
「デモができる社会ができる」については、個人的に全く異存はない。だが、柄谷君のいうところの「原発とともに資本主義を廃絶しよう」という、旧態依然としたマルキシズム、アナーキ主義、脱原発に便乗した階級闘争的な思考が「デモができる社会」に結びつくとは到底思えない。
Twitterには、こんな書き込みもあった。
「そうそう昨日のデモで「日大全共闘」のノボリ旗があった。お話をうかがったら「若い人が動いているので、自分らも何かしたい」と。やっぱこうでなくっちゃ! 」
はぁ・・・・日大の全共闘って、安田講堂立てこもりの主力じゃなかったか?
で、何がこうでなくちゃなんだ?いったい昨日のデモは何のためのデモなんだよ。
自分も原発は無い方がいいと思う。仮に、原発を止める事で電気料金が2倍に跳ね上がっても結構だ。だが、はたして参加者の何割が、純粋に原発に反対をするためにデモに参加した、所謂「ごくごく一般の市民」だったのだろうか?
そして何より、あのデモ隊に自分が最も感じた違和感は、震災後ちょうど半年にあたり、被災地域では厳かに犠牲者への追悼が執り行われていたその日に、大音量でロックを流し、様々な楽器でドンチャン騒ぎ立て、一部では仮装をしながら「原発いらねぇ」を絶叫して警官隊と揉みあう連中の、あの無神経さだった。